おじいちゃんの他意無真心 第2回

おじいちゃんの他意無真心

2012年00月00日

一億円は一円の一億枚。ひと粒のささやき「もったいない」

エコロジーな生活とは

エコロジーな生活とは

旬の食べ物が出始めて、食卓にも春を感じます。普段あまり買い物に出かける方で はないのですが、生活用品を買いに近くの店に出かけたときのことです。会計を待っていると、「レジ袋を使いますか?」と聞かれました。私は財布しか持っていなかったのでレジ袋をいただきましたが、今は「エコバック」というものがあるそうです。持っていくとお店によっては数円差し引いてくれたり、スタンプを押してくれたりするんですね。
そういえば、昔は妻も、買い物に行くときは、竹でできた買い物かごをもって商店街を歩くのが当たり前でした。酒やビールの瓶を酒屋へ持って行けばお金にかえてくれるし、豆腐屋にはアルミのなべを持って買いに行ったものです。
エコバックという言葉に新しさを感じましたが、あれこれ考えてみると、なんてことはない、あの買い物かごも今でいうエコバックで、生活のちょっとした工夫は、昔の当たり前の生活習慣に戻ろうとしている気がします。エコロジーな生活とは、小さ なこと一つひとつの積み重ねが大切で、それは一億円が一円の一億枚でできていることに気づくようなもの。一円を大切にする心が必要なのかもしれません。

エコという言葉と一緒に、もったいないという言葉も最近耳にしますが、昔はよく「もったいない」という言葉を使ったものです。着るものも、食べるものも、学用品も、全てが「もったいない」というのが原点でしたから、新しいものはなかなか手に入らないのが当たり前でした。欲しいという欲望も「もったいない」という言葉には勝てなかったのです。



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食は心も満たす

今は暴食の時代で、好きなものを好きなときにいつでも食べられます。それでも日本の国内自給率は低く、最近の小麦粉不足や大豆不足を耳にすると、私はひもじかった時代を思い出してしまいます。みなさんは、ひもじいなんて思ったことはないでしょうし、その言葉すら知らないかもしれません。
ひもじい時代は、食べ物がないから腹がいっぱいになるまで食べることができず、いつも空腹でした。だからこそ、食べ物のありがたみは子供の頃から体に染み付いていました。
食べ物でお腹が満たされると、同時に心も満たされて、元気になる。食が満たされると体が(持)つ。でも、食べ物が無ければ(体)は持たずに(無)くなってしまいます。
もったいないは持・体・無。そんな風に、佐野じぃの言葉遊びで考えてみました。
人は食欲を満たしてくれる食べ物に対して「もったいない」という気持ちで頂くことが大切なのかもしれません。食物は自然からの供与、大いなる恩恵です。おそれおおい、かたじけないという気持ちが「もったいない」という言葉にあらわされているのでしょう。
さてさて、確かに、もったいないことばかりしていると、体が持た無いです。「もったいない」は命を継ぐ言葉ですね。お茶碗についた米粒を一つ残さずきれいに食べてごらんなさい。お皿に盛った料理を残さずきれいに食べてごらんなさい。きっと気持ちがいいと思いますよ。

一家団欒に託された、人々の夢と未来。

子育ては最優先事業

子育ては最優先事業

梅雨入りとなり、日ごとに気温が変わりやすい季節になりました。時々、天気の良い日は近所を散歩しながら、街や自然の小さな発見を楽しんでいます。
通り道にはちょうどいい休憩場所の公園があって、そこは10時を過ぎると、小さなお子さんを連れたお母さんたちがどこからともなく集まってきて、砂場でいっしょに遊んだり、お母さん同士で話しを始めたりと少しずつにぎわってきます。
昨今のお母さんたちはパートをしたり、正社員で働いたりと忙しそうです。お母さんたちの環境も人それぞれなのでしょう。とはいっても、今も昔も社会の基本単位は 家庭で、そこから社会は始まっていると思うのです。
子育ても、やがて社会に旅立つ資源の一人を育てているのですし、社会で働いているお父さんは家族に支えられている。家庭は社会の中でも大きな存在です。
私は子を産み育てることが、社会・国家を存続する上で、どのような事業よりも優先しなければならない事業と信じています。人がいなければ事業はおろか、社会も国家も成り立たないからです。だから子育てをしながら家庭教育を担っているお母さんには、その働きにふさわしい報酬を与えられるべきで、そのようなしくみがあれば、幸福な家庭が、そして社会がつくられるのではないかと考えます。



一家団欒

夢は「一家団欒」でした

あるお母さんが、以前私にこんなことを相談してきました。「仕事で忙しかったから、昔から息子が欲しいというものはいつも与えてきて不自由をさせなかった。なのにどうして非行にはしってしまうのか…」と。私はお母さんに伝えました。それは両親の愛情を金銭的なものでは与えてきたけれど、子供にがまんする心を教えることを 忘れていたのではないのでしょうか…、と。
がまんができなければ、人間は自分本位な生き方になり、相手を思いやったり、節度をもつことを忘れてしまいます。心の教育ができるのは、家庭であり、一家団欒の場なのではないでしょうか。
喜怒哀楽をぶつけ合って、それでも助け合っていくのが家族です。子供が悩みを抱えたら、それを親に打ち明けられる団欒の場=家庭があれば、子供はそこから強く生きていけます。
戦後の高度経済成長期、人間の共通した生き方、夢は、「一家団欒」でした。誰もが一家団欒を目指してがむしゃらに働いてきた時代が確かにありました。一家団欒こそが日本人の幸せの象徴だったのです。
若い人の中には、一家団欒という言葉すら知らない人もいます。子供が一家団欒を体験できないほど、お父さんもお母さんも忙しい時代なのでしょうか。
私の幸せは、一家団欒の日々を重ねて、天寿を全うし、愛する家族に見送られて、妻と始めた一会一緒の旅に出て立つ生涯と、さらにその旅を続けるのが私にとって、生死一如の幸せなのです。
一家団欒が夢です、と答えるのも恥ずかしいのかもしれませんが、一人ひとりの夢を実現するためにも、あたたかい家庭、喜怒哀楽を共にできる家庭の建設はいつの時代も大事で、社会的幸福の基となるものと確信しています。

>>がまんは思いやり…ずっと大事にしたいもの